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2012年11月25日 (日)

紅葉

 これほどまでに紅葉に飢(かつ)えていたのかと、車窓の外を流れる景色を子供のように見つめ続ける自分が少し可笑しかった。

 紅葉が見られないのを随分寂しく思い始めたのは、二年ほど前からだったろうか。

 当時駐在していたパリ近郊でも、秋になれば木の葉は揃って色付きはする。でも紅く染まった木にお目に掛かることは滅多になかった。

 たまに道端でぽつりと紅葉に巡り会うことがなかったわけでもないが、それより日本の燃えるような山の色合いがたまらなく恋しくなってきていた。

 パリは市内にも郊外にも無数の公園を持っている。その悉く…とは言い過ぎだが、ともかく殆どが黄葉で、見た目の変化が乏しい。樹木の並びや高さが人工的に統一されているものだから、単調さはますます募る。

 以前に引いたことのある、「秋の日のヴィオロンのため息の」で始まるヴェルレーヌの「落葉」(Chanson d'automne=秋の歌)、

Les sanglots longs
Des violons
De l'automne
Blessent mon coeur
D'une langueur
Monotone.

 上田敏が「ひたぶるに」と訳した箇所の原文は「monotone」だった。

 勿論それが色合いのことだけを指しているわけではないが、ただただ黄色くなった葉っぱの群れがザーッと走り抜けていくだけでなく、Chantilly城館のようにそこに紅葉が混じっていたなら、白秋の「片恋」に詩想が近付いたかもしれない。

あかしやの金と赤とがちるぞえな。
かはたれの秋の光にちるぞえな。
片恋の薄着のねるのわがうれひ
曳舟の水のほとりをゆくころを。
やはらかな君が吐息のちるぞえな。

あかしやの金と赤とがちるぞえな。 

 元来それほど紅葉が好きだったわけでもない。

 琵琶湖へ向かう電車の中でふと気付いたのは、日本の山の紅葉、黄葉にはリズムがあるということだった。

 山が燃えるような紅葉が見たいからといって、行けども行けども全山紅葉一色では、色が黄色から紅に変わっただけのことで単調至極、パリと何ら変わるところはない。

 緩やかに凸凹のある山の緑の中に突如として紅葉が大きく存在を示し、尚且つ黄葉も彩りを添えているという、その変化が美しいのである。

 その彩りが 1/f ゆらぎを内包しているものなのかどうか、そこまでは知らん。知らんけど、心地よい。

 紅葉を見たいと言いながら、出不精も加勢して時機を逸するところであったが、拠ん所ない事情で琵琶湖湖畔まで日帰り往復することになってしまった。その収穫は存外大きかった。

 それっぱかりのことに気付くのにお前はこれまで馬齢を重ねてきたのかと指弾されれば面目もないが、これもしばらく故国を離れていた効用だと思えば、多少は居直っても良いかなとも思ってみたりもするのである。

 

 

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