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2012年12月 8日 (土)

国家経済が破綻するということ

 ギリシャの国家経済破綻は結局他人事なんだろうか。

 国家が破産すると言っても、「ただちに」(←フクシマで多用された言い回し!)殺されるわけでもない。アルゼンチンだって破産したけど、今国民は生活を謳歌しているではないか、と。

 そもそも国家が破産するというのはどういうことなのだろう。

 年収が200万円しかないのに借金して毎年300万円使い続けるようなもの、というのが、よく出てくる喩え。大抵そこで終わってしまう。だからなかなかピンと来ない。

 そんなの、ちょっと我慢して家計支出を減らせばすむだけのこと。簡単じゃん、と。

 が、ちょっと待て。一般家庭と国家財政では、腔腸動物と直腸動物ほどに出入り口が違うのだ。

 一般家庭だと、収入先は会社とかお客さんで、その金の出て行く先は入ってきた先とは別の所へ向かう。

 これに対して国家財政とは、一旦国民から税金という名目で金を徴収し、それを再び国民に向かって放出する。官僚という名の消化器官が真っ先に寺銭を掠め取り、その残滓を国民再配分に回す所などは、いそぎんちゃくみたいな腔腸動物と同断と言えなくもない。

 皮肉はともかく、ぼくらは自分たちが支出したカネは、個人毎での凸凹はあるにせよ、国民に返ってくると信じてるからこそ、渋々ながらも税金を払っている。

 ずーっと国家財政の収入と支出のバランスが取れ続けているなら、内容はともかくとしてそれでも永続性があると信ずるに足るのだが、日本という国は収入より多い支出を国会が認め続け、不足分を借金で賄ってきた。

 ギリシャもそうだった。

 ギリシャと日本とが異なるのは、日本国家の借金先の大半が日本国内の金融機関、引いては国民の預貯金だったのだけれど、ギリシャの場合、借金先は他国の政府、金融機関に幅広くまたがっている、という点。

 ギリシャ政府が遂に、「もうあきまへん、カネが回りまへん、借金の利息返済もままなりまへん」と白旗を揚げた。

 カネ貸し連中(ギリシャ国債を保有している他国政府や金融機関)が、そらしゃーないなと許してくれるはずがない。

 当座をしのぐゼニは融通したるけど、税金収入は先ずワシらの返済に充てろ、国内に回すのは、そのお余りに限るようにせい!と詰め寄った。

 シャイロックとは、物語の中に出てくるたった一人の固有の人物ではないのである。

 ギリシャ政府としては、これを受け容れるより他ない。だから借金返済以外の支出の大幅削減に踏み切った。

 そして何が起こったか。

 国民の側から見れば、これまでと同じように100万円の税金を払っているのに、見返りが50万円とか30万円になってしまったということである。

 「見返り」というコトバが適切かどうかはちょっと判断に苦しむ。それまでは税金以上の見返りが(総体として)あったわけだから、単にツケが回ってきただけと言えなくもない。それでも、「今」を起点として見るなら、えらいことになってしまったわけである。

 先日FR2で象徴的な報道を見た。

 ルポ先はギリシャの病院である。

 様々な予算削減の中、当然病院にもカネが回ってこない。

 必要な器具も揃えられない。高価な機器だけではない。手術用の手袋までもが買えないというのである。

 素手で手術をしなけりゃならん。一体誰がオレを感染症から守ってくれるんだと、匿名の医師が憤慨していた。

 そんな病院でまともな手当が受けられるとは思いがたい。勿論それは医師のせいではないのだが。

 これまで国家なり企業なりの放漫経営をスルドク満喫できた人々は、祖国がどうなろうと、病気になれば外国へ行って手当を受けられる。置き去りにされるのは常にそういう範疇から外れた人々である。

 それを、そうなってしまってから「ズルイ!」と糾弾するのは、間違っている。

 ギリシャにもぼくらの国ににも、「民主主義」というお題目が鎮座ましましていて、民から信任を得た人々が国政を動かしているということを忘れちゃいかん。

 その選ばれし人々は「議員」と呼ばれる。

 議員というのは本来「代議員」であって、それは「一般民衆に『代』わって『議』論する」人の謂いであった筈なのだが、いつの間にか『代』が抜けてしまったのか、それともかれらは「やっぱり」代議員なのか、ぼくには判然としない。

 竹下登内閣の下、「ふるさと創生事業」と称して各市町村に一億円をばらまくという愚劣極まりない政策が実施された。受け取りを辞退した自治体がどれほどあったのか知らないが、国会(代)議員、都府県(代)議員、市町村(代)議員は、大多数としては異を唱えなかった。

 マスコミも揶揄はしたが、それだけのカネがあるなら国家財政均衡に回すべきだという強い論調は、ぼくの記憶には薄い。

 二千円札をタダで配った小渕恵三内閣。新札現ナマをばらまけば自販機も新調しなければならないし、民も喜ぶ。経済活性化一石二鳥、だと。

 記憶に新しいばらまき行政は「子供手当」。これについては、制度が間違っているというつもりはない。フランスにだって、allocation familliale という制度があるにはある。

 が、「子供手当」の発案の底には深い理念も何もない。単なる皮相な思い付き、人気取りの政策でしかなかった。

 さりながら、そういう政策は全て「国民の代表」により採択されたものなのだから、ケチを付けられる謂われはない。

 それらの財源をひねり出すために更に借金を上乗せするのも、「国民の代表」がOKと言ったのだ。手続きは正しく踏まれている。

 そのツケが回ってきて、ぼくらがまともな医療を受けられないような事態に進展したとしても、ぼくらの代表が決議した挙げ句の果てなのだから、唯々諾々として受け容れる義務がぼくらにある、ということになろう。

 成人用紙おむつの売り上げが赤ん坊用のそれを上回ったそうだ。

 団塊の世代の膨大な預貯金が食いつぶされた後、即ち日本国内の金融機関が日本国債を支えきれなくなった暁にぼくらを待っているのは、どういう社会なのだろうか。

 フクシマで放射線被曝量に関し、「ただちに影響はない」という語法が盛んにマスコミで流された。

 その「ただちに」とは、実は即死を意味する語用であった。

 大量被爆しても「ただちに影響はない」、というのは即死する人はいないと言うだけで、約束されてしまうであろう緩慢な死に対する洞察は置き去りにされていたのである。

 

 

 

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