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2017年3月10日 (金)

異邦人 Albert Camus, L’étranger. 2

 特にこの本に深入りするつもりは決してなかったんだけど、最終部が気に掛かってしまい、随分あれこれ考えることになってしまった。

 webにヒントは転がっていないか探してみたが、日本のサイトではぼくの考え方に即した記事は見付からなかった。

 フランスのサイトには流石に論考だったものがいくつかあったが、それでも何かしら「absurde不条理」ありきの記事が目立った。

 本書の中で"absurde"という単語は一度しか出てこない。その代わり、raisonとかraisonableみたいな類似語が頻出しているのに気が付いた。通読している最中には気付かなかったのだが、absurdeの反対語であるraisonやその類似語が随所に散りばめられているのは、作者の周到な用意だったのだろう。

 日本の某サイトで目にした記事の、「J’avais eu raison,j’avais encore raison,j’avais toujours raison. (私はかつて正しかったし、今もなお正しい。いつも、私は正しいのだ)と激昂します。(avoir raison = 正しい)」という原文引用しながらの下りがきっかけだった。

 翻訳出版物の文章がどうなっているのか手元にないので分からないが、この”J’avais eu raison・・・(avoir raison)”の部分を「正しい」としているなら、それは、断言する、明らかな誤訳だ。

 ”avoir raison”とは、客観的な正しさではなく、「行為の、自分における正当性」をあらわす。
 例えば、痴呆・徘徊の介護に疲れ果てた挙げ句、将来を悲観して親を殺した年老いた子がいたとすると、その老齢の子にはそれなりのraisonがあったと了解される。

 唯一神教の世界での「正しさ」の判断基準は「God」の意志に沿うているか否かだけだ。
 この物語の主人公ムルソーが「自分は過去も今も神の意志に忠実であった」なんて言うわけないでしょ。

 だからその部分は、「ぼくには以前にもぼくなりの理由があったのだし、今でもそれが正当だと思ってる。ずっとぼくなりに理由はあったのだ」という意味合いを、もちっとブンガク的に表現してほしいところだ。

 さてこれ以上この本に関わるのも御免蒙りたいので、現時点でぼくに分かる限りで最終部の和訳を試みる。(原文ではこれひとまとめで一段落なのだが、PC仮面では読みにくいから、適当に分割する)

 司祭は出て行き、ぼくは平静に戻った。ぼくは草臥れていた。寝床に身体を投げた。眠ってしまったんだろう、目覚めた時顔に星明かりが降っていた。

 森や畑の音がここまで押し寄せてきた。夜の、土の、塩の香りがこめかみを爽やかにした。この上ない平穏な夏の穏やかさが、潮のようにぼくに流れ込んできた。

 その時、夜の終わりにサイレンが一斉に鳴り響いた。今となっては決してぼくと無縁ではない世界へ向けての出発を告げているのだ。

 随分久し振りに母さんのことを思った。母さんが何故人生の終盤に「フィアンセ」を持ったのか、やり直そうとしたのかが分かったような気がした。いくつものいのちが消えかかろうとしている養老院の周囲、まさにそこでも、夜はもの悲しい束の間の避難所だった。

 死を間近にして、母さんは解放されたと感じ、そして生きなおす準備ができていたに違いない。誰も、誰一人として母さんの死に涙してはならない。ぼくもまた新たに生きなおす準備ができたように思う。

 強い怒りがぼくから悪と呼ばれるものを追い出し、希望をすっかり消し去ってしまったかのように、様々な象徴と星々が溢れたこの夜、思いやりに溢れた世間の無理解に、ぼくは今夜初めて心を開く。

 世間はぼくと違わない、同じなんだ、結局のところ友愛に満ちていたんだと了解できた時、ぼくは、じつはずっと幸せだったし、今でもそうなんだと感得した。

 全てを終わりにして(consommer)幾ばくかでも、もうひとりぼっちではないと感じたければ、ぼくの(断頭)処刑日に大勢の見物人が集まり罵って欲しいと心から願えば、それでいいんだ。

 原文は、煩わしいだろうから最後に回す。

 ぼくは本書に関する書評とか論評をこれまで読んだことがなかった。(或いは、読んだことがあったかもしれないが、すっかり忘れてしまっていた)

 この度(webに限ってだけど)あれこれつまみ読みしてみて、「不条理哲学が」とか「シーシュポスの神話が」とか書かれているのを見てうんざりしてしまった。

 ぼくは学者ではないので、「カミュが本書で述べたかった『本当のところ』は何であるか」なんて興味ない。この本一冊で何を読みとれるのか、それが全てである。

 だから、作者であるカミュが1955年の米国出版序文に書いたことすらぼくは意に介さない。作者自らが解説するのはある意味、反則でもある。

 その序文に、「主人公は嘘をつくことを拒否した(il refuse de mentir.)」とある。確かに、勤め先のボスからパリ勤務をオファーされながら、でもぼくはここが好きだからと拒否したり、情事の相手であるマリちゃんに自分を愛してるかと聞かれ、多分愛してないと答えるような場面はあるが、それは「ウソmentir」を拒否するというより、迎合を拒むという表現の方がぼくにはしっくりくる。

 また、「ムルソーは太陽を愛した(Meursault pour moi n'est donc pas une épave, mais un homme pauvre et nu, amoureux du soleil qui ne laisse pas d'ombre.)」とあるが、一人称のこの物語に没入したなら、太陽はいつも「ぼく」を責め苛んでいるイメージがある。だからぼくは、太陽は「世間」なのだと読んできた。(それはそれで、じゃあ、「アラブ人」は何なのと更に袋小路に入って言ってしまうのだけれど)

 ついでに。

 本書冒頭の”Aujourd'hui, maman est morte.”だが、これ、現在形。以後は全て複合過去形での叙述となっている。

 ぼくは前回ここを「母さんはもう死んじゃってるってことを今日知った。」と訳したが、「母さんは既に死んでいる」と現在形で始めないといけなかったようだ。

 ここでの「今日」は、過去のある日の「今日」ではなく、いつだって「今日」なのだ。
 それから過去形へ移る時制の転換は、読者を物語の中に引きずり込む大きな役割がある。

 webのつまみ読みをしている最中、「御用司祭」という語がたびたび目に付いた。翻訳でそのように書かれているのだとすれば、これも読者の目を欺く誤訳ではなかろうか。

 「御用司祭」という語を読者はどのように受け止めるだろうか。この司祭は本気で誠心誠意ムルソーにキリスト教への回帰を促しているのだ。そして、ってか、しかも、その説得内容が裁判審理と同様、空虚。現代人への説得力無し。
 これまた作者の皮肉のあらわれだろう。

 これ以上は、ぼくのごときチンピラに深入りは禁物。

 てなことで頓首しつつ、以下、先に披露した訳の原文をば。

 Lui parti, j’ai retrouvé le calme. J’étais épuisé et je me suis jeté  sur  ma  couchette.  Je  crois  que  j’ai  dormi  parce  que  je  me  suis réveillé  avec  des  étoiles  sur  le  visage.  Des  bruits  de  campagne  montaient jusqu’à moi. Des odeurs de nuit, de terre et de sel rafraîchissaient mes tempes. La merveilleuse paix de cet été endormi entrait en moi comme une marée. À ce moment, et à la limite de la nuit, des sirènes ont hurlé. Elles annonçaient des départs pour un monde qui maintenant  m’était  à  jamais  indifférent.  Pour  la  première  fois  depuis  bien longtemps, j’ai pensé à maman. Il m’a semblé que je comprenais pour-quoi à la fin d’une vie elle avait pris un « fiancé », pourquoi elle avait joué  à  recommencer.  Là-bas,  là-bas  aussi,  autour  de  cet  asile  où  des vies s’éteignaient, le soir était comme une trêve mélancolique. Si près de  la  mort,  maman  devait  s’y  sentir  libérée  et  prête  à  tout  revivre.  Personne, personne n’avait le droit de pleurer sur elle. Et moi aussi, je me  suis  senti  prêt  à  tout  revivre.  Comme  si  cette  grande  colère m’avait purgé du mal, vidé d’espoir, devant cette nuit chargée de signes et d’étoiles, je m’ouvrais pour la première fois à la tendre indifférence du monde. De l’éprouver si pareil à moi, si fraternel en-fin,  j’ai  senti  que  j’avais  été  heureux,  et que  je  l’étais  encore.  Pour que tout soit consommé, pour que je me sente moins seul, il me restait à souhaiter qu’il y ait beaucoup de spectateurs le jour de mon exécu-tion et qu’ils m’accueillent avec des cris de haine.

 

 

 

 

 

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