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2017年10月

2017年10月31日 (火)

フランスの失業事情

 10月30日のFR2で、雇用の現状に触れていた。

 雇用環境という意味合いだけで言えば、活況を呈している。ただし、派遣労働に限っての話ではあるが、職種は選び放題で、勤務先を変更してくれと派遣会社から要請されるケースもあるとか。

 派遣労働者の需要は,」この一年間で二割増加し67万人。フランスの人口が6200万人なので、人口比で見れば日本の130万人と丁度見合い。

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 運送業、商業や接客業での需要が増えている。工業技術者も不足している。
 賃金は月額ネットで1500~1600ユーロ。

 ぼくら日本人に分かりにくいのは、cadre(管理職)の派遣労働需要が一年間で16%近く増加しているということ。日本の企業だと「管理職」ってのは社内でそれなりの評価を受けてきた人たちが落ち着く場所と定まっているが、フランスでは管理職も一時雇いで賄うケースがある。

 失業手当は、マクロンの財政再建政策の一環として五十歳以上の支給期間が引き下げられ、従来のように36ヶ月支給されるのは55歳を待たねばならなくなった。

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 五十歳以上となると、なかなか職がないんよとぼやく高年者の声があり、事情はどこの国でも同じようだ。

 日本で今自ら派遣労働を選択している若者達もやがて歳をとる。二十年後、三十年後の労働環境はどうなっているだろうか。人口減少により人手不足となって、高齢者でも職探しに苦労することが無くなっているだろうか。それとも国内需要減少で働き口は減っていくのだろうか。

 

 

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2017年10月12日 (木)

小学校の英語教育 4・・・外国語を学ぶ御利益

 世界に打って出ようという気がさらさら無くても、外国語を学ぶ理由はある。
 論理的な話し方を身に付けることができるという効果がある。

 有り体に言ってしまえば、日本語で、のほほんと深く考えることなく暮らしている限り、論理的に自らの思いを開陳する力は付きにくい。(「のほほんと深く考えることなく」という下りに注意されたし)

 いつの頃からか不覚にも知らないのだが、日本人の会話とか文芸というのは、相手が「察する」ことを基本としている。

 「言ひおほせて何かある」とか、「秘すれば花なり」なんてのは、その典型だろう。そんなん、ガイジンにはとても通じない。

 通じないのは日本語のせいではない。そういう表現形態をとるぼくら自身の思考や表現形態のせいである。日本語でもきちんと論理だって説明することはできる。できるけど、日本語を使うと、そういう習い性がどうしても出てくる。

 だから、ちょっと距離を置いた外国語での表現を試みることは思考訓練にもなる。

 亡くなった会社の先輩がこう言っていた。
 「言いたいことはいっぺん英語にしてみたらエエねん。そしたら非論理的なところがすぐ分かる」
 フランス哲学者の内田樹は、和文仏訳の「お稽古」に朝日新聞の「天声人語」を使うと書いていた。日本語で読めば何となく分かった気になる文章でも、いざフランス語に訳そうとすると、その非論理的な展開を再構築せねばならず、頭の体操になると。(ぼくの学生時代、深代惇郎の書く天声人語は世評が高かったのだが)

 そういうところに気付くには、やはり一度どっぷりと日本文化に浸ってしまい、そこからの対比で外国文化を学んでいく方が深いところまで理解できるのではないだろうか。

 ここまでぼくは、「英語」という単語をできるだけ避け、「外国語」と表記してきた。

 文科省が推進しようとしているのは、「英語」教育と言いながら、その実「米語教育」ではないのか、米国の植民地化政策ではないのかと疑いを持っているからだった。

 若年からの「英語教育」が、何事に於いても中途半端な日本人を形成してしまう方向に走ってしまわなければよいのだが。

 

 

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2017年10月10日 (火)

小学校の英語教育 3

 外国語の若年教育は、悪いことではない。

 若年層での外国語教育に理由があるとすれば、日本語以外の音韻に慣れることが第一であるとぼくは思う。

 外国人との会話で苦労するのは、音が聞き取れないからだ。
 音さえ拾えれば、あとは単語と文法力の問題だけで、これは習得しようという意志さえあれば、何歳からであっても、誰にでもできる。けれど、耳の方は、音感の良い人を除けば、トシ喰ってから鍛えるのはハードルが高い。

 だから、若年層の外国語教育に当たっては、歌や美しい文章の暗記に注力するのが最善策だとぼくは信じてやまない。

 小学生が外国語習得にどの程度モチベーションを持ち続けられるだろう。当初こそ、リンゴはアップルって言うんだって、と物珍しさで引っ張っていけるだろうが、それを何年も継続できるだろうか。

 それよりは、暗誦させるのが一番だ。若年層は暗誦能力に長けている。意味が分からなくても覚えてしまう。

 小学時代に授業で習った歌がある。

 ♪クイクヮイ マニマニマニマニ ダスキー/クイクヮイコー クイクヮイカム/クイクヮイ マニマニマニマニ ダスキー/クイクヮイコー クイクヮイカム/オニコディモ オーチャリアリ ウンパ・・・

 意味不明 ( ̄Д ̄;;
 でも、覚えてる。

 時には同僚の名前さえ咄嗟に出てこなくなるようになってしまってるぼくだが、それでも覚えてる。若年の記憶力を侮ってはならない。

 美しく脚韻を踏んでいる歌を一学期で二つほど、正しい発音と共に覚え込んでいけるなら、一生の宝物となること請け合い。

 加えて、「使えるフレーズ」を含んだ短文を暗記する。これは必須であろう。但し、できるだけ正確な発音で。

 初回のフランス赴任時、昔聞いていたNHKのラジオフランス語講座は随分役に立った。テキストの課題文章をぼくは毎週暗記した。

 渡仏後、ごく希にではあるけれど、そこで覚えた構文がそのまま使える場面もあった。
 その時の、その構文だけはとても立派に喋れた。

 相手のフランス人は、文法発音間違いだらけのガタガタのフランス語を喋るコイツが、何故このフレーズだけ?と訝っていたに違いない。

 

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2017年10月 9日 (月)

小学校の英語教育 2

 前記事で引いた、「小学校における外国語教育・・・」の18ページに、こんな記載があった。

 「国際的な視野を「身に付けていると思う」と回答した各国の若者(7か国中)」
1位 ドイツ (69.6%)
2位 スウェーデン (61.0%)
3位 英国 (56.5%)
7位 日本 (24.8%)

 「国際的な視野」ってなんだろうと、引用元の「我が国と諸外国の若者の意識に関する調査(平成 25 年度)」を見てみたら、

Q32 国際社会の一員としての役割を果たしていくために必要な「国際的な視野」(例えば,自国と他国の文化・歴史・社会を理解し,互いの生活・習慣・価値観などを尊重して,異なる文化の人々とともに生きていくことができる態度や能力)を,自国の国民はどの程度身に付けていると思いますか。この中から1つだけ選んでください。

 続くQ33「国際的な視野を身に付けるために必要な政策」という問いへの回答が、こうまとめられている。

日本の若者が考える「国際的な視野を身に付けていくために必要な政策」は,「外国人と交流する機会を提供する」(42.0%),「海外への留学の支援・促進を図る」(32.6%),「様々な 場 での外国の文化や歴史の教育の充実を図る」(29.4%)が上位にあげられている。

 日本人全員が「国際的視野」を持たねばならないんだろうか。そのために、何故わざわざ政府が「外国人と交流する機会を提供」しなければならないんだろう。

 これらの問いと回答の選択肢に恣意性が感じられなくもないのだが、そもそもこれは内閣府による「若者の意識調査」で、対象が「各 国満 13 歳から満 29 歳までの男女」への、どう感じていますかというアンケートなのだ。

 その若者達の「単なる感想」を以て文科省が若年外国語教育の必要性へと敷衍するのは、ちょっとスジが違うのではないか。

 「国際的視野」の育成を教育に織り込んでいきたいなら、本来既に他国で活躍している人々に「あなたの経験から、今後どういう施策を打っていけばより良くなると思うか」と尋ねるべきではないか。

 こと外国語習得に関する限り、経験者対象のアンケートに「人間、必要に追い込まれればいやでも頑張って自分で勉強するさ」という選択肢があれば、そこに多くの回答が集まり、文科省の「予算獲得」という目論見は潰え去る可能性が無くはない。

 

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2017年10月 8日 (日)

小学校の英語教育

 既に英語教育を行っている小学校があると知って驚いたのは普段テレビを見ないぼくだけで、既に周知の事実だったんだろう。

小学校における外国語教育の充実に向けた取組(カリキュラム、教材、指導体制の強化)
小・中・高等学校を通じた英語教育強化事業等 (平成29年度予算額1,438,756千円)
 

 なんだか危ういな、と感じる。

 明治時代に、日本語を廃して国民語を英語にしてしまえと提唱した森有礼という人がいた。
 この主張は単に卑屈な被植民地主義的な思想によるものではなかったろう。当時は、それまでの日本語には存在しなかった西洋の概念が夥しく流入してきていた。これでは西洋列強に伍していくことはできないという強い焦燥感からだったのだろう。今とは事情が違う。

 コトバは道具であると共に、民族の文化そのものでもある。単語一つ一つに民族由来の事象への感性というものがたたみ込まれている。

 まず正しい日本語で正しく思考できるようにしなければ、といいうのは、決して偏狭な国粋主義的考え方ではない。

 英語の早期教育には、世界への発進力を高めるというお題目も付随しているようだが、仮に世界百ヶ国の言葉を自在に操れるようになったとしても、問われるのは常にその内容である。

「英語教育をめぐる議論を活発化させる目的で、文部科学省が省内の幹部会議の一部を英語で行う方針を決めた」と2014/4/30付の日本経済新聞電子版にあった。

 大分古い記事で、今どうなっているのか寡聞にして知らないが、この程度の発想力しか持ち合わせていない人々が国民の基礎学力の行方を決めていることに暗澹たる気持ちとなるのはぼくだけなんだろうか。

 

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