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2018年4月 4日 (水)

「応仁の乱」(中公新書/呉座勇一)

 サラエボでオーストリー皇太子が暗殺された。それが第一次世界大戦のきっかけとなった。ガッコでそう習った。
 当時、何でそれがあれだけの国を巻き込んでの大戦争になったのか、まるで理解できないでいた。ハプスブルグ家縁者の相続争いだったと知ったのは、随分後になってからのことだ。

 応仁の乱に至っては大して興味も湧かず単なる争いごとの一つとしか捉えてなかった。
 ただ、「京都人が先の戦争と言う時、それは応仁の乱を指すのだよ」という都市伝説だけは、ずっと頭の片隅に残り続けてきた。

 「新書」なんだからキホン二時間で読めるはずと侮って掛かったら、案に相違して手強かった。三百人に至る登場人物の名を覚えられるはずもない。そもそも名の読みが難しいし、地名だって全部が分かるわけではない。

 なので、「正しく読む」のは早々に諦め、ふーん、そーゆーことだったのね、程度の読み方に切り替えた。

 畠山家の家督相続争いに幕政への影響力増強を狙った山名宗全がのっかって細川勝元と対立し、足利義政は将軍職を譲るからといやがる弟の義視を還俗させた。なのに、義尚が生まれるとそれを反故にしてこれを将軍職に就けようとする。反発した義視が山名宗全を頼って・・・とこれまた家督相続のお家騒動。

 中央でそういうややこしい対立がある一方、地方では領地荘園の奪い合いが力ずくで蔓延していて既に戦国時代みたいになっていたのが背景となり、各地の武力勢力はそれぞれの思惑でこの機に乗じて領土を増やそうとし、戦火が全土に及んでいった。

 とまー、著者には悪いが、ぼくの理解は大体そんなところ。

 リアルタイムで成り行きが記録された二人の僧の日記、「経覚私要鈔」(興福寺別当・経覚、九条経教の子)と、「大乗院寺社雑事記」(次の興福寺別当・尋尊、一条兼良の子)に拠りながら本書が著されているのだが、学術的価値を保ちながらの記述は素人にはきつかった。

 でも、僧兵というのはホンマモンの坊主ではなく、寺社に属する武力集団だとか、公家が出家して寺に入る理由だとか、幕府の威信が既に地に落ちかけていた有様とか、そういう事情が分かっただけでも拾いものだった。

 東軍(細川派)と西軍(山名派)が対峙して都の中で互いに陣を構え、西軍が陣を構えたところは西陣と呼ばれた。西陣織の名の由来というトリビアも楽しい。

 当時の守護大名は京都に住むことを義務づけられていた。ヒマな彼らは和歌や連歌といった公家の遊びを否応なしに身に付けることとなっただけでなく、京都に莫大なカネを落としたことで経済発展に寄与した。

 乱の収束後、守護大名達は領地固めが大事とばかりに、次々と自国領に帰っていった。

 京文化が地方に広まったのは、乱を逃れようと各地に避難した貴族だけがその役を担ったのではなく、京文化を身に付けた守護大名が自国で都を懐かしみ模倣したためでもあると著者は言う。

 本書を下敷きにした小説か漫画が出てくれると嬉しいんだが。

 

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