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2018年10月25日 (木)

「超越と実存」 南直裁 (1)

 「プロローグ」に言う。

 自分が今ここでしていることを、仏教の過去と結びつけ、未来に臨んで、これまで「伝統」と呼ばれてきたものを再解釈しようとしていた。それもこれも、自分の問題に聞くアプローチを発見するためである。
 私の抱え込んできた問題が何で、再解釈がどのようになされたのかの一端は、以下の本文で論じられるだろう。

 そしてプロローグの最終部で、釈尊も道元も自分と同じ問題を発見したのだという気付きの歓喜に寄せて言う。

 ならば、私にはもう、問題の解決は必要ではなかった。問題共有する人間が、かつて確かに存在していたということこそが、救いだったのだ。 

 「問題解決」なんか提示してませんよ、私と問題共有してもらえれば、というのが本書の狙いであった。

 

 ・死とは何か
 ・私が私である根拠は何か

 著者は若い頃からこの二つの問題を抱え続けてきたと言う。

 「私とは××である」という形式で答えようとすれば、それは所詮言い換えに過ぎない。その「××」の存在根拠は何かという堂々巡りのドツボにハマってしまう。「生」とは何か「死とは何か」という問いへの答えは遂に得られない。

 自分の存在根拠を生死を超えた「超越的存在」、一神教で言うところのGODのような概念に求めれば、その「超越的存在」は「私」から永遠に分断されている。それは「私」ではない。

 著者は問いを立て直した。私とは「どのような存在であるのか」と。
 行き着いた先が釈尊と道元であった。

 ゴータマ・シッダッタは、私とは何ものであるかという問いの根源は、「人は何故、老い、病み、そして最後は死なねばならないという『苦』に苛まれるのか」にあると看破した。その「苦」から解放される手立てを得て、彼は仏陀、釈迦牟尼世尊(釈尊)となった。

 この世の中に自分自身を含め、確固不変たる存在はないという「無常観」、そこを確かな存在と誤って見る「無明」から「苦」が生じるのだという洞察がそれである。

 自分の外にある物や者を渇望するのは、それを永遠に自分の存在の一部にできると思い込むからであり、愛する物や者が自分から去ると自分の実存の一部が削り取られてしまったかのように嘆き悲しむ、それは思い違いなのだよ、と。

 とてもシンプルな教えではあるが。頭で理解できたとしても徹底して腑に落としこむことは容易ではない。「我」は確かに存在しているではないか--という思いから脱却するためには「修行」が必要だとするのが、上座部仏教。

 上座部の教えは修行者個人のためのものでしかない小さな乗り物(小乗)だ、大衆のための教えこそ必要だと、いわゆる大乗仏教が勃興する。

 しかし、そこには大きな落とし穴があった。

 「修行」に拠らないのであれば、教えを伝える手段はコトバしかない。ところがコトバはその対象を実体化させる。実体化された対象は「私」とは切り離された別の実存として屹立する。

 釈尊の教えはどのように今に伝わって来たのか。著者は仏教史を俯瞰する。

 アビダルマ、般若経典、華厳経典、法華経、浄土経典、密教経典、竜樹と無着・世親、中国仏教、智顗と法蔵、中国浄土教と禅、日本の「ありのまま」の思想、空海、天台本覚思想、法然、親鸞、道元へと。

 

「超越と実存」 南直裁 (2)

超越と実存」 南直裁 (3)

「超越と実存」 南直裁 (4)

「『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか」 南 直哉

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