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2018年10月31日 (水)

「超越と実存」 南直裁 (4)

 釈尊の教えをぼくらに分かりやすい一言で要約するなら、「執着するな」。

 臨済宗の始祖、臨済義玄のこんな語録がある。

仏に逢うては仏を殺し。祖に逢うては祖を殺し。羅漢に逢うては羅漢を殺し。父母に逢うては父母を殺し。

 仏を殺せって!?親を殺すってどーゆーこと?若い当時、意味が皆目分からなかった。

 勿論これは「殺人のススメ」ではない。そういうコトバに代表されるその執着を捨てよということであったのかと分かったのは随分時を隔てた後のことだった。

 日々是好日

 今ではもう見かけることもないが、半世紀以上前の大衆食堂には大抵、のほほんとした武者小路実篤の挿絵と共にこの言葉が掲げられていた。(もう一つの武者小路実篤の定番は「仲良きことは美しきかな」)

 これを見てぼくも「今日ものんびり良い日だなあー、のほほんが一番!」だと思っていたのを、紀野一義に叱られた。(直接お目に掛かったことはございません。彼の著書で)

 これは「血反吐を吐く思いで言わねばならない言葉なのだ!」と。

 不治の病に罹った・・・ 「日々是好日」
 愛するわが子を失った・・・ 「日々是好日}

 この「血反吐を吐く思いで」というひとことで「のほほん」は砕け散った。

 でも、血反吐を吐かねばならないような「思い」は否定すべきものなのだろうか。
 「色即是空」だけでよいのだろうか。

 般若心経では先ず「色不異空、空不異色」目に見える形や現象は「空」と異なるものではなく「空」は目に見える現象と異なるものではない、と説く。

 その後に色即是空と来るわけだが、即座に、空即是色と説き、「受・想・行・識・亦復如是」見えるものだけでなく、五感で感じることやそれによって発動されるもの全てが同様なのだよと続く。

 ぼくらが「実在」だと思ってるものはぼくらが信じているような実体ではない。だから、それに執着しても何にもならない。
 でもね、そう見え、感じるものがあるという事実はやっぱり厳然としてあるのだよ。

 言ってることは「分かる」気はする。でも受け止め方が分からない。
 南直裁の言うコトバの罠にはまり込んでいるような気がする。

 


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