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2018年10月 6日 (土)

「『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか」 南 直哉

 読んだのは二年近くも前のことだが、この本、ずっと頭から離れずにいる。

 当時、「何かしら、すごい!」という思いに駆られ、頑張って読んだ。

 読み終えて結局よく分からなかった。これはいかんと再読した。今度は何となく分かったような気になれた。そこでいそいそと、埃を被っていた「岩波 日本思想体系」の「道元」を引っ張り出し「現成公案」の巻にチャレンジしたが・・・

得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも見成にあらず。見成これ何必なり。

 己の無謀さをひしと感じた。
 素直に、更に立て続けに三度再読を重ねた。

 本書のキモは「縁起の『起』、そこを見よ」ということらしい。
 ここで言う 「起」とは、異なる存在との関係から生起する、その発火の瞬間のことであろう。
 それが何なのか、殆ど分かった気になってはいるのに、最後はするりと手からすり抜けていく。そういう状態のまま、反復して考え続けてきた。 
 
 「因」(原因となる種)が無数にあり、
 「縁」によってそれらが出会った瞬間
 「起」相互反応が生成され、
 「果」が生じる。 
 

 「果」とは、「神の目」による客観的なものではない。「受け取る側の認識」である。

 五感による認識は、即座に受容する個体それぞれの過去の経験の積み重ねによる「評価」を伴う。

 「起を見る」とは、その価値判断の直前を看取せよということであろう。俗な言い回しに頼るなら、ありのままを見よ。

 禅語に言う「花は紅(くれない)、柳は緑」とは、花や柳に対する手前勝手な判断を下す直前の、見たままを了解せよと。

 そういう文脈に立てば、「現成公案」の有名なこの一節も、何となく分かるような気がしてくる。 

 自己をはこびて、萬法を修証するを迷いとす。萬法すすみて、自己を修証するは悟りなり。

 仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に証せらるるなり萬法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

 ホンマに腑に落ちたんかいな?と目を覗き込まれ問われれば、ポリポリと頭を掻くしかない。それでも、何かしらの手応えはある。

 これからも折に付け「起」を頭の中で転がし続けていくしかないのだろう。
 チューダ・パンタカの教えもあることだし。

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