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2018年10月27日 (土)

「超越と実存」 南直裁 (3)

 「信じる」とはどういうことなのか。

 (それを)主題化してしまった以上は、もはやそれは単純に『信じる』行為を不可能にするだろう。『信じるとは何か』と問う人間が、同時に『信じる』ことは不可能である。 (p.215)

 それでは、阿弥陀如来の本願の往生への念仏は如何にあるべきか。

 それは『信じる』行為そのものを脱落してしまうことによって行う念仏である。(p.220)

 ここに於いて、唯一神教的世界へ傾いていた浄土教のパラダイムが破壊される。

 「脱落」とは、道元の言う「心意識の運転を停め、念想観の測量(しきりょう)を止めて、作仏を図ること莫れ」(普勧坐禅儀)。

 道元の章。

 ・・・主体と対象それ自体がまず存在していて、しかる後に行為が発動するのではない。発動している行為が、主体と対象を構成するのだ。このように解釈されるとき、行為は「縁起」を意味する。

 ・・・

 「舟である」という事態も、「生きる」という事態も、行為としての関係のシステム(「機関」)として、一挙に現実化する。ここのそれ自体で存在するように認識されているものは、所詮はこのシステムの関係項として構成されているのである。

 すると、ここまでの言い分からして、「仏」とは「仏のように行為する」実存の呼称である、ということになる。このとき、「悟り」も「涅槃」も現実的には何であるか認識不能だから、「成仏」は「自己」にはできない。「自己」に可能なのは、「仏になろうと修行し続ける」主体として実存することである。すなわち「仏」は「仏となろうとする」主体の実存様式である以外に現実化しないのだ。 (p.232~234)

 悟りを開くとか大日如来と一体化するとかいったことが可能なのか不可能なのかは別にして、それがどういうものであるか、少なくともぼくらは認識することはできない。

 著者が冒頭に掲げた、「死とは何であるか」「私の存在根拠は何であるか」という問いに、本書がどういう決着を付けたのか、読了しても分からなかった。

 著者は、自分と同じ悩みを抱えている人たちがこの世に存在していたのだということが分かっただけで救われたと言う。

 「結論(A=B))」を求めようとしたぼくが浅はかだったのだろう。
 でも、著者の心持ちは分かるような気がする。

 

「超越と実存」 南直裁 (1)

「超越と実存」 南直裁 (2)

「超越と実存」 南直裁 (4)

「『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか」 南 直哉

 

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