文化・芸術・宗教

2017年12月26日 (火)

肘関節骨折2 四門出遊

 大きな病院の待合で座っていると、町医者とは違って、様々な患者が目の前を通り過ぎる。

 点滴器具を押しながらよたよたと歩いている人、ストレッチャーで慌ただしく運ばれていく人・・・
 健常者はそうでない人々にどれだけ思いを馳せることができるんだろう。

 ふと「四門出遊」を思い出した。釈尊(お釈迦様)が出家に至るエピソードである。

 釈迦族の王子として何不自由なく育った若き日のゴータマ(ガウタマ)・シッダールタはある日、地上に出てきた虫が鳥に食べられる光景を見てしまった。それも、繰り返し。
 他者の生命(いのち)を以て己の生命の糧にするという現実に愕然となり、彼はふさぎ込んでしまう。

 心配した父 浄飯王は、気晴らしに城の外の光景でも眺めてみたらどうかと勧めた。

 勧めに従い王子シッダールタが東の門から出ると、歯が抜けて腰の曲がった老人がいた。

 宮殿暮らしで醜いもの一切から遠ざけられていたシッダールタは問う。
 「あの人、何?」
 従者が答える  「老人です。人というものは歳をとれば誰でもあのようになるのです」

 次に南門から出ると、痩せさらばえた人が体を震わせていた。
 シッダールタは問う 「あの人、何?」
 従者が答える  「病人です。人というものは生きている限り病から逃れることはできません」

 次に西門から出た時にシッダールタが目にした光景は、お分かりであろう、
 火葬の現場だった。
 従者は言う 「人というものは、如何なる者とて『死』から逃れることはできないのです」

 そして北門で修行者と出会ったゴータマは、出家を考え始める。

 

 昔、大家族が小さなコンミューンの中で暮らし、身のまわりに老人も病人も、死人も当たり前に見ていた時代があった。それまで庭で走り回っていた鶏を屠る光景だって日常生活の一環だった。

 「核家族」という言葉が生まれたのはいつの頃だったんだろう。

 その辺りからぼくら<現代人>は、「生・老・病・死」への感受性を失い始めたらしい。手持ち無沙汰の病院の待合でそんなことを考えていた。

 

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2017年10月12日 (木)

小学校の英語教育 4・・・外国語を学ぶ御利益

 世界に打って出ようという気がさらさら無くても、外国語を学ぶ理由はある。
 論理的な話し方を身に付けることができるという効果がある。

 有り体に言ってしまえば、日本語で、のほほんと深く考えることなく暮らしている限り、論理的に自らの思いを開陳する力は付きにくい。(「のほほんと深く考えることなく」という下りに注意されたし)

 いつの頃からか不覚にも知らないのだが、日本人の会話とか文芸というのは、相手が「察する」ことを基本としている。

 「言ひおほせて何かある」とか、「秘すれば花なり」なんてのは、その典型だろう。そんなん、ガイジンにはとても通じない。

 通じないのは日本語のせいではない。そういう表現形態をとるぼくら自身の思考や表現形態のせいである。日本語でもきちんと論理だって説明することはできる。できるけど、日本語を使うと、そういう習い性がどうしても出てくる。

 だから、ちょっと距離を置いた外国語での表現を試みることは思考訓練にもなる。

 亡くなった会社の先輩がこう言っていた。
 「言いたいことはいっぺん英語にしてみたらエエねん。そしたら非論理的なところがすぐ分かる」
 フランス哲学者の内田樹は、和文仏訳の「お稽古」に朝日新聞の「天声人語」を使うと書いていた。日本語で読めば何となく分かった気になる文章でも、いざフランス語に訳そうとすると、その非論理的な展開を再構築せねばならず、頭の体操になると。(ぼくの学生時代、深代惇郎の書く天声人語は世評が高かったのだが)

 そういうところに気付くには、やはり一度どっぷりと日本文化に浸ってしまい、そこからの対比で外国文化を学んでいく方が深いところまで理解できるのではないだろうか。

 ここまでぼくは、「英語」という単語をできるだけ避け、「外国語」と表記してきた。

 文科省が推進しようとしているのは、「英語」教育と言いながら、その実「米語教育」ではないのか、米国の植民地化政策ではないのかと疑いを持っているからだった。

 若年からの「英語教育」が、何事に於いても中途半端な日本人を形成してしまう方向に走ってしまわなければよいのだが。

 

 

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2017年10月10日 (火)

小学校の英語教育 3

 外国語の若年教育は、悪いことではない。

 若年層での外国語教育に理由があるとすれば、日本語以外の音韻に慣れることが第一であるとぼくは思う。

 外国人との会話で苦労するのは、音が聞き取れないからだ。
 音さえ拾えれば、あとは単語と文法力の問題だけで、これは習得しようという意志さえあれば、何歳からであっても、誰にでもできる。けれど、耳の方は、音感の良い人を除けば、トシ喰ってから鍛えるのはハードルが高い。

 だから、若年層の外国語教育に当たっては、歌や美しい文章の暗記に注力するのが最善策だとぼくは信じてやまない。

 小学生が外国語習得にどの程度モチベーションを持ち続けられるだろう。当初こそ、リンゴはアップルって言うんだって、と物珍しさで引っ張っていけるだろうが、それを何年も継続できるだろうか。

 それよりは、暗誦させるのが一番だ。若年層は暗誦能力に長けている。意味が分からなくても覚えてしまう。

 小学時代に授業で習った歌がある。

 ♪クイクヮイ マニマニマニマニ ダスキー/クイクヮイコー クイクヮイカム/クイクヮイ マニマニマニマニ ダスキー/クイクヮイコー クイクヮイカム/オニコディモ オーチャリアリ ウンパ・・・

 意味不明 ( ̄Д ̄;;

 でも、覚えてる。このところ同僚の名前さえ咄嗟に出てこなくなるようになってしまってるぼくだが、それでも覚えてる。若年層の記憶力を侮ってはならない。

 美しく脚韻を踏んでいる歌を一学期で二つほど、正しい発音と共に覚え込んでいけるなら、一生の宝物となること請け合い。

 加えて、「使えるフレーズ」を含んだ短文を暗記する。これは必須と言っても良い。但し、これも正確な発音で。

 初めてフランスに赴任したとき、以前に聞いていたNHKのラジオフランス語講座は随分役に立った。毎週詩や小説の一部が提示され、その講義という内容だった。

 ぼくは毎週課題の文章を暗記した。渡仏後、たまーにではあるけど、そこで覚えた構文がそのまま使える場面もあった。その時の、その構文だけはとても立派に喋れた。

 相手のフランス人は、文法発音間違いだらけのガタガタのフランス語を喋るコイツが、何故このフレーズだけ?と訝っていたに違いないけど。

 

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2017年10月 9日 (月)

小学校の英語教育 2

 前記事で引いた、「小学校における外国語教育・・・」の18ページに、こんな記載があった。

 「国際的な視野を「身に付けていると思う」と回答した各国の若者(7か国中)」
1位 ドイツ (69.6%)
2位 スウェーデン (61.0%)
3位 英国 (56.5%)
7位 日本 (24.8%)

 「国際的な視野」ってなんだろうと、引用元の「我が国と諸外国の若者の意識に関する調査(平成 25 年度)」を見てみたら、

Q32 国際社会の一員としての役割を果たしていくために必要な「国際的な視野」(例えば,自国と他国の文化・歴史・社会を理解し,互いの生活・習慣・価値観などを尊重して,異なる文化の人々とともに生きていくことができる態度や能力)を,自国の国民はどの程度身に付けていると思いますか。この中から1つだけ選んでください。

 続くQ33「国際的な視野を身に付けるために必要な政策」という問いへの回答が、こうまとめられている。

日本の若者が考える「国際的な視野を身に付けていくために必要な政策」は,「外国人と交流する機会を提供する」(42.0%),「海外への留学の支援・促進を図る」(32.6%),「様々な 場 での外国の文化や歴史の教育の充実を図る」(29.4%)が上位にあげられている。

 日本人全員が「国際的視野」を持たねばならないんだろうか。そのために、何故わざわざ政府が「外国人と交流する機会を提供」しなければならないんだろう。

 これらの問いと回答の選択肢に恣意性が感じられなくもないのだが、そもそもこれは内閣府による「若者の意識調査」で、対象が「各 国満 13 歳から満 29 歳までの男女」への、どう感じていますかというアンケートなのだ。

 その若者達の「単なる感想」を以て文科省が若年外国語教育の必要性へと敷衍するのは、ちょっとスジが違うのではないか。

 「国際的視野」の育成を教育に織り込んでいきたいなら、本来既に他国で活躍している人々に「あなたの経験から、今後どういう施策を打っていけばより良くなると思うか」と尋ねるべきではないか。

 こと外国語習得に関する限り、経験者対象のアンケートに「人間、必要に追い込まれればいやでも頑張って自分で勉強するさ」という選択肢があれば、そこに多くの回答が集まり、文科省の「予算獲得」という目論見は潰え去る可能性が無くはない。

 

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2017年10月 8日 (日)

小学校の英語教育

 既に英語教育を行っている小学校があると知って驚いたのは普段テレビを見ないぼくだけで、既に周知の事実だったんだろう。

小学校における外国語教育の充実に向けた取組(カリキュラム、教材、指導体制の強化)
小・中・高等学校を通じた英語教育強化事業等 (平成29年度予算額1,438,756千円)
 

 なんだか危ういな、と感じる。

 明治時代に、日本語を廃して国民語を英語にしてしまえと提唱した森有礼という人がいた。
 この主張は単に卑屈な被植民地主義的な思想によるものではなかったろう。当時は、それまでの日本語には存在しなかった西洋の概念が夥しく流入してきていた。これでは西洋列強に伍していくことはできないという強い焦燥感からだったのだろう。今とは事情が違う。

 コトバは道具であると共に、民族の文化そのものでもある。単語一つ一つに民族由来の事象への感性というものがたたみ込まれている。

 まず正しい日本語で正しく思考できるようにしなければ、といいうのは、決して偏狭な国粋主義的考え方ではない。

 英語の早期教育には、世界への発進力を高めるというお題目も付随しているようだが、仮に世界百ヶ国の言葉を自在に操れるようになったとしても、問われるのは常にその内容である。

「英語教育をめぐる議論を活発化させる目的で、文部科学省が省内の幹部会議の一部を英語で行う方針を決めた」と2014/4/30付の日本経済新聞電子版にあった。

 大分古い記事で、今どうなっているのか寡聞にして知らないが、この程度の発想力しか持ち合わせていない人々が国民の基礎学力の行方を決めていることに暗澹たる気持ちとなるのはぼくだけなんだろうか。

 

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2017年9月10日 (日)

蜘蛛の糸 考

 今昔物語などを下敷きにして素晴らしい作品を多数残した芥川龍之介であるから、「蜘蛛の糸」に原型があると言われても驚くには当たらないが、Paul Carusなるドイツ人がが米国で発表した"Karma: A Story of Buddhist Ethics"の中のKarmaという部分が原型らしいと聞けば多少の興味も湧いてくるし、それを翻訳して「因果の小車」という題で日本に紹介したのがあの鈴木大拙だということになればなおさらである。

 ”Karma”は45ページ程の話で、第五章(初版は章分けされていなかったらしい)のタイトルが“The Spider-Web”とそのものずばり。この章での主人公の名もKandataとあるから、これに着想を得たのだろうと考えるのは理にかなっている。

 もっとも、地獄に堕ちた魂を「葱」だとか「腐った人参」だとかで救いあげようとして不首尾に終わるという類似の話は、ロシアや南欧の伝承に幾つもあるらしい。ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」の中の「一本の葱」という挿話にも類型があるようだ。

 余談だが、このKarumaをトルストイがロシアで紹介し、それが翻訳されて欧州にトルストイ作として広まったらしい。Carus は第三版の序文でわざわざ、A few translations were made without the author's knowledge.・・・A Russian translation was made by Count Lee Tolstoy, who recommends the story to his countrymen and ・・・と記している。(ぼくが確認したのは第六版)

 “The Spider-Web”は粗筋に要約してしまえば芥川の「蜘蛛の糸」と全く同じなのだが、説教臭さが背景に遠のいている芥川の方が断然良い。

 日本人なら「蜘蛛の糸」を誰もが賞賛するはずだとずーっと思い込んできたのだが、そうでもないらしいことをこの度初めて知った。

 楠山正雄なる御仁は「この童話にも,どこか西洋人の作者の書いた東洋の物語といった感じがする」と評しているそうだが、その論を読んだことがないので根拠がぼくにはよく分からない。小松左京に至っては同名のパロディがあるらしい。wikiによれば、カンダタは無事極楽に上りおおせ、お釈迦様が地獄に堕ちてしまうと言う話だそうな。

 他にも、芥川の「蜘蛛の糸」は冒頭と結末に矛盾があるという批判もあるらしいのだが、ぼくにはその論拠がよく分からない。

 一つ推測するなら、批判する人々はお釈迦様を唯一神教のGODと混同しているのではないかということ。

 “Karma”にしてもその他各国に残る伝承にしても、カンダタ的人物(魂?)は神に救いを求め、「人参」とか「葱」を差し出されるのだが、それが途中で千切れてしまってまた地獄に戻るという筋立てになっているようだ。

 対して芥川の「蜘蛛の糸」では、「御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃ」ったところ、たまたま地獄の底にカンダタという男が他の罪人と一緒に蠢いている姿が目に止まった。この男は生前蜘蛛を助けたことがあると「御思い出しになり」蜘蛛の糸を垂らすのである。

 Help me!という叫びへの呼応ではない。
 各国の伝承をつぶさに読んだわけではないが、ここが他の伝承と大きく違っている部分だと思われる。

 救いを求める声に応じて手を差し伸べながら結局「アンタの自己責任だからね」と突き放したんだと芥川の作品を読むなら、やりきれない思いは残るだろう。

(この項続く)

 

 

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2017年7月19日 (水)

chef (シェフ)

 chef (シェフ)という語は、日本ではもっぱら「料理長」として使われているようだが、本来的には「軍事・行政の指示を下す者」。下って、一般的には何かしらの「組織の長」という意味合いで使われる。
 だから、会社組織で言うなら、社長以下、部長とか係長とか課長とか、みーんなそれぞれのユニットのchef。

 この7月14日の軍事パレードでマクロンが「Je suis chef de l'État ( I am "chef" of the State=私は国家の長である)」と発語したのには、ちょっとびっくりした。

 フランス人の感覚では多分当たり前に聞こえるんだろうが、当たり前だからこそ、こんなところでそんなに気張らんでもええんちゃうの?というのが、万事控えめなぼく(失笑)の感想。

 ルイ14世が言ったとされる「朕は国家なり」は、「l'État, c'est moi (State, it's me.)」。ニュアンス的にちょっと違う。


 

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2017年7月17日 (月)

パリ 7月14日 2017年 「ニース」から一年

 大勢の人々が花火見物をしていたプロムナード・デ・ザングレ(イギリス人遊歩道)に大型トラックが突っ込み、死者84人、200名以上の負傷者を出した大惨事は、一年前のフランス国民祝日の7月14日の夜、ニースで発生した。

 今年、軍事パレードが一通り終わったところで、コンコルド広場では「NICE」という人文字が描かれた。(手前=下の三色テントの下にフランス大統領以下来賓がおわします)

0_2

 ニースでは一周年の追悼式が行われ、フランス共和国大統領も勿論出席した。軍事パレードが終わるやニースに飛んだんだろう。

 ニースではこんなことをしていた。
 何やら貼っている。

1

 次々に貼っていく。

2

 このハート型が完成すると、この事件で亡くなった犠牲者の名が全て表示されるという仕掛けになっている。

 かの暴走トラックに立ち向かった、警官だったかどーゆー人だったか聞き漏らしたが、ともかくその方に「騎士」の勲章が贈呈された。

3_2

なるほど、こういう場合にも勲章が授与されるのか。分かりやすい讃え方だ。賞状なんかと違ってかさばらないから、リビングの飾り棚みたいな場所に置いておくこともできると、妙なところで感心した。

 とはいえ、何となく違和感をぼくは感じる。

 ここニースだけでなく、バタクラン劇場やシャルリ・エブドその他でも悲惨な事件が起こっている。そういった場所でも周年追悼式があるのかどうか寡聞にして知らないが、あるとすれば、それらにも共和国大統領は欠かさず出席しているのだろうか。

 複数の民間人が犠牲になった襲撃事件が発生すると、マスコミはすぐにテロだテロだと騒ぎ立てるが、政治的な意図あってのテロであれば、即座に犯行声明を出さなければ意味がない。

 シャルリ・エブド事件はそういう意味では分かりやすかった。メッセージは明確だった。
 でも、その他の事件ではどうだったのか。便乗と見られても仕方の無いようなタイミングのずれたところでISが犯行声明を出したりしてるということになっている。このニース事件も、ぼくの知る限りでは背後関係は明らかになっていない。

 にもかかわらず、なぜ「ニース」だけに焦点を合わせるのだろう。
 社会不安を掻き立ててトクするのはどういう連中なんだろう。

 

 

 

 

 

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2017年7月15日 (土)

パリ 7月14日 2017年

 フランスの革命記念日。
 第一次大戦19017年に米国が援軍を出兵した100周年記念として、今年はトランプ夫妻が招待されていた。

 パリで一度目にして以来、ぼくはこの軍事パレードに結構病み付きになってしまってる。
 二時間半のフル中継をyoutubeで見付け、初めから最後まで見てしまった。

 その中でぼくの興味を引いたのは、パレード終了後の、新大統領マクロンの演説だった。

 オランドもサルコジも、歴代フランス大統領も同じようなことを喋っていたのかも知れないが、その内容なんてついぞ気にも掛けなかった。

 今日たまたま引っ掛かったのは、憲法九条改正議論(ぼくは推進派)が頭の片隅にあったせいなのだろう。安倍サンもこれっくらいの演説ができれば、なぁ、と溜息が出た。

 てことで、マクロンのそのdiscoursをご紹介。

 フランス本土、海外県、そして外国在住の親愛なる市民諸君。
 この7月14日、我々はフランスを祝おう。我々を一つに結びつけるものを祝おう。自由という名の独立を、一人ひとりに与えられる平等を、思いやりの心の友愛を祝おう。

 フランス国民の活力と意志が我々の歴史を築いてきた。
 1789年7月14日はフランスの歴史が始まった日ではない。いかなる信条ならば従っていけるのかを民衆が示した日だ。
(略)

 不安定な社会において、民主主義、思想の自由、宗教や肌の色・性別・意見で差別されない権利、また安全な暮らしや子どもたちの教育への権利は自生しているわけではない。
 それらを守ることを、自らの生命の危機を賭すことも顧みず選択した男たち、女たちが、ここフランスにいる。

 その男たち女たちは我々の、兵士であり、警察、消防隊、武装警官、税関たちだ。彼ら皆が我々を守っている。今日という国家の祝日に彼らが行進するのは、彼らが自由と権利を守る兵士であるからだ。

 彼らの忠誠心、献身、力が、我々が選択した秩序を保証してくれている。彼らに感謝したい。国家を挙げて感謝申し上げる。時にはそれが血で購われることも、私は知っている。

 フランス国家のために死んだ人々、残された寡婦、子どもたち、両親、親族がいることを、私は知っている。
 親愛なる市民諸君。この百年間、フランスは子どもたちを守ってきた。難民やテロ犠牲者の子どもたちも守ってきた。
(略)
 本日出席の傷痍軍人各位(略)私たちはあなた方の偉大なる犠牲を忘れはしない(略)。

 今日という記念日に、我々は決して忘れてならない責務がある。
 それは、我々が権利獲得のために支払った代償であり、また、それらを守るためにこれからも支払わなければならない代償があるということだ。何故なら、それこそが我々をフランスという一つの国家に結びつけ、今のフランスを形作っているからだ。

 全てのフランス人、フランスを選んだ人々、フランスを愛する人々に、今日という記念日が、和やかで喜びに満ちた日であることを祈る。

 共和制よ、永遠なれ、フランスよ、永遠なれ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2017年6月 4日 (日)

<アニメ> GATE(ゲート) 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり

 「どーぞ」って知人が貸してくれた。
 テレビ放送を丁寧に録画編集したDVD-Rである。

 アニメって さー、絵が汚いからねーと話してたら、いえいえ、今どきのアニメはなかなかのモンでっせと「ガールズ&パンツァー」を貸してくれたのが彼だった。これにはハマった。戦車の動きのリアルさに随分興奮して謝辞を述べたからだろう、「これもエエですよー」と持ってきてくれたという次第。

 「ガールズ&パンツァー」と同様、このアニメ作品も実にリアルな描写を見せてくれる場面がある。アニメ・キャラも筋立ても、演出も素晴らしい。

 カンペキにハマって日曜の早朝から一気に12話ぶっ通しで見てしまった。

 東京のど真ん中に異世界への「GATE」が突如現れ、陸上自衛隊がその異世界へ・・・という筋立て。海自でも空自でもなく、陸自をメインにしているのは、本土防衛への作者の思い入れか。

 「GATE」の向こうの世界は中世期風で、当然陸自の方が圧倒的に重火器装備で勝っているわけだが、大量殺戮の場面がちと気に掛かった。そこに目を瞑れば、よくできている作品。

 同じ彼が貸してくれた録画DVD-R「No Game, No Life」は、人生哲学に通じるような内容。来月劇場映画が登場するらしいから、人気の程がうかがえる。

 どちらもyoutubeで視聴できるけど、海外のサーバー保存みたいなんで、at your own risk で どーぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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